SixTONESが今、Imitation Rainを歌う意味

 

SixTONESのデビュー曲をX JAPANYOSHIKIさんが作る。

そう発表されたのは、2019年令和元年11月19日、Rough“xxxxxx” 東京国際フォーラム追加公演のMC中でした。私はその場に居合わせていました。

会場の歓声を聞きながら、私は言葉で表現できない感情に襲われていました。嬉しいのか、悔しいのか、感動しているのか、呆然としているのか……。驚き、喜んでいるたくさんの声に紛れて、私はある元ジャニーズの名前を何度も何度も呼んでいました。

昭次。

 

 

 

YOSHIKIさんは覚えていらっしゃるでしょうか。きっと覚えてくださっているでしょう。私が生まれるよりもずっと前のことですが。

ジャニーズに、「男闘呼組」というグループがいました。

みなさんにとっては、「岡本圭人のお父さんがいたところ」くらいの認識なのではないでしょうか。それから、CHANGE THE ERA -201ix-では北斗くんが〈みはり〉を歌いましたね。〈DAYBREAK〉と〈TIME ZONE〉はカウコンでも歌われているので知っている方も多いでしょうか。

男闘呼組は4人組のバンドでした。「ジャニーズのバンドは売れない」という定説を覆した4人組でした。そして、過去のいくつかのグループと同じように、ジャニーズ事務所の歴史の犠牲となりました。

ジャニーズは大抵の場合、詳しい歴史が残りません。嵐のデビュー後数ヶ月して生まれた私は、ついこの間まで、ざっくりとでも把握している「ジャニーズの歴史」といえば完全にSMAP以降だけでした。それ以前の昭和のジャニーズは、グループ名をいくつか知っているくらいで、どれがいつ頃のグループで、誰がどれだけ人気だったかなんてちっとも知りませんでした。

SixTONESを好きになり、KAT-TUNと掛け持ちの方から6人時代のことを少しだけ教えてもらい(KAT-TUNが6人だった頃、私は芸能人にとんと疎い小学生でした)、せっかくだから不良系ジャニーズの歴史を知ろうと手を出した男闘呼組。何度も言いますが生まれる前のことなので、正確な知識を得られているかはわかりません。当時を知る方からしたら全く的外れなことばかり書いているかもしれません。でも、私はどうしても、令和のジャニヲタのみなさんに知ってほしいことがあるのです。

 

Xは男闘呼組の友人でした。一緒にライブをやるほどの間柄でした。

こちらが当時のXと男闘呼組の記事です。

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YOSHIKIさんはいませんが、ライブの写真に大写しになっているのは、若かりし日のToshlさんと圭人パパ岡本健一さん。ライブにはToshlさんに加え、今は亡きXのベーシスト・TAIJIさんも参加していたようです。

座談会記事の写真で乾杯を交わしているのは、左から、男闘呼組のベーシスト・高橋一也さん(現在は高橋和也名義で俳優をされています)、Toshlさん、男闘呼組のリードギタリスト・成田昭次さん昭次、Xのギタリストだった故・hideさん。

ジャニーズとXは、世が令和になるよりずっと前、昭和から平成へ移り変わる頃に一度交わっていたのです。

 

 

男闘呼組について詳しくお話しする前に、ジャニーズ全体の歴史をざっくりとご紹介します。凝り性の自己満なので読み飛ばしていただいてもかまいません(笑)

初代ジャニーズは1962年、ジャニーさん監督の少年野球チームから、ジャニーさんのお気に入りメンバー4人で結成されました。雨の日に観に行ったミュージカル映画ウエスト・サイド物語』に憧れて……という結成秘話は、ジャニヲタのみなさんにはえび座などでお馴染みだと思います。アイドルといえば映画スターやソロの歌手で、まだアイドルという概念自体が成立途上だったその頃、「歌って踊る男性アイドルグループ」は何もかもが画期的でした。ジャニーズは女の子たちの間で高い人気を博し、全米デビューを目指してアメリカ修行に赴きますが、方向性の違いや種々の問題で夢を果たせず解散します。

第2号グループはフォーリーブス。ジャニーズの付き人だった故・北公次さん(事実上のジャニーズJr.第1号!)を中心に結成されましたが、ジャニーさんは当時のインタビューで「メンバー全員がスター」との方針を語っています。70年代当時流行していたグループ・サウンズでは、ザ・タイガースのジュリーこと沢田研二など、バンド内に1人スター的存在がいるスタイルが主流だったのです。フォーリーブスは4人全員のキャラ立ちと高い歌唱力を武器に、トップスターへと駆け上がります。

フォーリーブスのバックに付いていたJr.が、郷ひろみさん。他事務所の野口五郎さん、故・西城秀樹さんとともに「新御三家」と呼ばれ大ブームを巻き起こしますが、デビュー3年でバーニングプロダクションへ移籍。フォーリーブスも人気不振により解散し、70年代後半、ジャニーズには冬の時代が訪れます。

ブロマイドの売上はあるもののヒット曲に恵まれない中、 1979〜80年放送の『3年B組金八先生』で大ブレイクしたのが、田原俊彦さん・野村義男さん・近藤真彦さんのたのきんトリオ。実はこの3人、ジャニーさんのチョイスではなく、数多くいたJr.の中からドラマのプロデューサーが偶然選んだキャストでした。そのため、たのきんブームは事務所にしてみれば全くのハプニング。ジャニーさんの人選ではないためグループにはせず、あくまでもそれぞれをソロでデビューさせました。

金八先生』の姉妹編として81〜82年に放送された『2年B組仙八先生』で、たのきんと同じ手法で人気を得たのがのちのシブがき隊です。シブがき隊はデビューする前、Jr.の中でAチームと呼ばれていました。そしてBチームが、のちの少年隊。つまりBチームのほうがその後長く残ることになったわけですが、番手が低かったほうが生き残るのはジャニーズあるあるだったりしますね。とはいえ、少年隊はジャニーズ史上1番と言っていい実力派。生前のジャニーさんも、「最強のグループ」と語っていたそうです。

そんな少年隊のレコードデビューが85年。そしていよいよ昭和も末期、1987年にデビューしたのが、最後のスーパーアイドルこと光GENJIです。

 

光GENJIは、実は男闘呼組の少し後輩に当たります。光GENJI男闘呼組、そして忍者(デビュー前は少年忍者)の3グループが、まとめて「少年御三家」と呼ばれていました。You&Jみたいなシステムですが、初期のアイドルの御三家文化の末裔が少年御三家、さらにはYou&Jだと言うほうが正確でしょう。光GENJI≒NEWS、男闘呼組KAT-TUN、忍者≒関ジャニ∞とよく言われています。

男闘呼組と少年忍者の結成はいずれも1985年頃。男闘呼組は、Jr.の中でダンスレッスンが嫌いな仲間が集まったプライベートバンドから始まり、ジャニーさんの命名によって正式なグループになりました。一方少年忍者は、中村繁之さんというソロアイドルのバックダンサーとして結成。華は足りないものの、アクロバットを強みとする実力派優等生グループでした。

遅れること2年、もともと中村繁之さんと同じユニットで活動していた元祖シンメ・光と、Jr.歴の浅いフレッシュなGENJIが組み合わせられ、光GENJIとして、先輩2グループを追い越してデビューします。なんだかHey!Say!JUMPやSexy Zoneのような話ですね。光GENJIはたちまち一世を風靡。トップアイドルの座をほしいままにします。

対して、Jr.のまま着実に人気をつけたのが男闘呼組。硬派で不良っぽい魅力(というかもろヤンキー)で光GENJIと人気を二分し、デビュー前に主演映画まで作ります。そして1988年8月24日、満を持して、〈DAYBREAK〉でデビューします。

 


男闘呼組/DAY BREAK

 

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最年長は1番左、ボーカル&リードギター成田昭次

同い年で1番右、ボーカル&キーボードの前田耕陽

一つ下の右から2番目、ボーカル&ベースの高橋一也

同い年で最年少の左から2番目、ボーカル&リズムギター岡本健一

デビュー当時、年上2人は20歳、年下2人は19歳でした。これでも当時は待たされたほうです。光GENJIの最年少が中学生でしたから……。

もちろん個々のメンバーを語り始めればきりがありませんが、記事の趣旨とずれるので今回は割愛します。

1989年1月に元号が平成になり、男闘呼組はジャニーズで昭和最後のデビューグループとなりました。

そんな89年、ジャニーズのグループとして初めての東京ドーム公演を光GENJIが、2組目の公演を男闘呼組が行います。当時はまだ何もないに等しいシンプルなセットに未発達な音響技術ですから、今2グループがドームでやったら……と妄想が膨らみます。

そうして栄華を極めた2グループでしたが、平成に入ると音楽番組が次々と終了し、アイドルブームが終焉を迎えます。

1990年、平成最初のデビューを果たしたのが忍者でした。歴の長い少年忍者に最年少メンバーがセンターとして加入し、美空ひばりのカバーで和を全面に出してデビューしましたが、音楽番組衰退の影響を受けヒットには至らず。そんな苦難の時代、1991年にデビューしたのが、SMAPです。

やっとSMAP!(笑)その後はみなさんご存じの通りです。アイドルが音楽だけでは生きていけなくなったので、SMAPはバラエティ番組に活路を見出し、マルチタレントとして国民的地位にのし上がります。

SMAPの前身はスケートボーイズ。ローラースケートの光GENJIのバックで、スケートボードをするユニットでした。そこから6人が選抜されてSMAPとなります。

ですが、SMAPの尊敬する先輩尊先は男闘呼組でした。特にキムタクはオカケンに相当憧れていたそうで……若い頃の岡本健一さんを見るとキムタクそっくりなんですが、もちろん逆で、キムタクがオカケンそっくりなのです。

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健ちゃん、可愛すぎて年上に見えない。

岡本健一さん、今は圭人のパパとしてくらいしかジャニヲタに認知されてない気がするんですが……「キムタクの尊先」ってすごくないですか?

 

さあ、SMAPが憧れた男闘呼組とはどんなグループだったのか。ようやくここからが本題です。

今でもTOKIO関ジャニ∞、Jr.では7 MEN 侍とAぇ! groupがバンドをしているので、ジャニーズバンドは伝統だと思われるかもしれません。たしかに、バンド自体は事務所設立当初からいくつかありました。しかし、それらはあくまでもバックバンド。バンドグループだけでスター的地位になることはあり得ませんでした。

そんな中、バックバンド扱いでないバンドを始めたのが、たのきんトリオのヨッちゃんこと野村義男さんです。たのきんは当初全員ソロデビューする方針でしたが、王道アイドル路線のトシちゃん・マッチと違い、スカウト入所のヨッちゃんはもともとギタリスト志望だったため、ジャニーさんに頼んでツインボーカルのバンド・THE GOOD-BYEでデビューしました。たのきん時代ほどの活躍には至らなかったものの、メンバー自作曲を多くリリース。男闘呼組へとバトンを繋ぎます。

 

80年代、世はバンドブーム。ジャニーズJr.の「裏番長」・昭次も兄の影響でロックに夢中でした。(敬愛を込めて男闘呼組メンバーを呼び捨て・ちゃん付けで呼ばせていただきます……)合宿所で一也と知り合い、意気投合。互いの友達を集めてプライベートバンドを始めます。しかし最後まで残ったのは昭次と一也だけでした。

少し遅れて健ちゃんが加入。Jr.内で3人セットの活動が増え、正式にグループ結成へと動き出しました。その後もメンバーが加わっては脱退し、最後に耕陽が加入して、4人体制の男闘呼組となりました。

昭次を可愛がってギターを教えていたのが、ほかでもないヨッちゃん。男闘呼組はTHE GOOD-BYEの流れを汲みつつ、「ロックをやりたい」だけにはとどまらない、新たなジャニーズバンドの在り方を提示していきます。

 

当初、事務所は男闘呼組を今まで通りジャニーズらしく染めようとしていました。雑誌『宝島』のインタビューで本人たちが語るには、

岡本 事務所の人間が俺たちに「おまえら、タレントだから何でもできる」って。「ギター持ってバク転しろ」って言われたもんなぁ(笑)

そりゃいくらなんでも無理でしょ!(笑)用意されたフリル付きの衣装も、「こんなもの着れない」と抵抗します。このエピソードは少クラにこっそり私服で出ちゃったSixTONESを思わず連想しました。

事務所に反発する男闘呼組は大人からだいぶ嫌われてしまいますが、それだけの反骨精神があったからこそ、我を通して好きなことをやり続け、腐ったり潰れたりすることはありませんでした。

一也作詞の〈赤ちょうちんでくらせ〉という曲から、当時の葛藤が伺えます。

くらせ 先立つ物がねえと ねじ伏せられちまうのか

くらせ 力あっても コネがねぇとシカトされんのか

 話しのわからんやからと くだらん組織を蹴とばせ

縛られるのはゴメンだぜ ゴメンだぜ

こんな歌詞、今書いたら確実に干される!(笑)

これがロックなんです(きっと)……SixTONESでも樹くんが表立って言えない内容をラップのリリックに乗せたりしますが、まさにあの精神です。昭次や一也がJr.黄金期以降のジャニーズにいたら男闘呼組はヒップホップグループになってたかも……なんて考えます。

 

後輩・光GENJIのデビューを見送った後、結成3年でようやく掴んだデビュー。しかし、初めは作詞家・作曲家の手による楽曲がほとんどで、音楽番組でも楽器は当て振りをさせられました。世間からも「ジャニーズのアイドルバンド」という偏見に晒され、まともに評価してもらえませんでした。

それでも自分たちのやりたいことを貫き、決して権力に屈しなかった男闘呼組。徐々にメンバー作詞曲を増やし、3枚目のシングルはロンドンでレコーディング。91年以降は、メンバー自作曲をシングル曲としてリリース。4枚目のアルバムは全曲がメンバー自作となります。

 


1991 男闘呼組 ANGEL MS

 


1992 男闘呼組 眠りにつく前に

 

神曲〜〜〜〜天才〜〜〜〜〜(オタク)

 

男闘呼組は、「ジャニーズ」という枠を突き破ろうとしました。これは昭和を知らない私の憶測でしかありませんが、ジャニーズのアイドルたちが音楽で自己表現をできるようになったのは、男闘呼組があったからではないかと思うのです。

 

先述したようにKAT-TUN男闘呼組と重ねて語られることがよくありますが、KAT-TUNの音楽的自己表現は赤西くんのソロや田中聖くんのラップなどごく一部にとどまり、男闘呼組の系統を継いでいるのは不良っぽいイメージのみのように感じます。

むしろ、SixTONESのほうが男闘呼組に近いと思うのです。音楽へのこだわりもさることながら、先例のない領域へ挑戦した男闘呼組のように、SixTONESは今、これまでのジャニーズの枠を越えて海外へ飛び出そうとしています。

また、私が男闘呼組SixTONESは似ているなと感じるのが、メンバーの最強感です。1人ずつでももちろんかっこいいけど、全員揃うと最強。パズルのピースが揃ったような、バチバチの無敵感。

 

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サイキョ〜〜〜〜!!!!

 

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エモエモエモ……

 

男闘呼組を貼りすぎたのでSixTONESも貼っときますね。

 

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存在が天才。

 

今も昔も変わらんなジャニーズは。

 

SixTONESはバカレア組解体後自分たちの意思で再集結しましたが、男闘呼組もジャニーさんからYOUとYOUとYOUとYOU!と言われて集められたわけではなく、自分たちでバンドを始め、自分の意思で残ったメンバーです。そのためとても仲が良く、当時のメンバーは「やめちゃうとかバラバラになるっていう発想がぜんぜんない」「30歳、40歳になっても男闘呼組をやり続ける」と言っていました。「おじさんになってもアイドルを続ける」ことが当たり前になったのはSMAP以降というのが定説ですが、もしかしたら男闘呼組がそういう存在になっていたかもしれないのです。

 

しかしそれは叶いませんでした。

1993年、すなわちデビューから5年後、一也が突然解雇されました。はっきりした理由は今でもわかっていません。

 

すでに決まっていたコンサートが中止され、男闘呼組は活動を休止しました。当時、メンバーは全員24歳でした。

2020年1月22日、デビュー日のSixTONESの平均年齢は23.8歳です。

 

 

 

ジャニーさん。男闘呼組とXが親しかったことは覚えていたでしょうか。

当時はまだ所属タレントが多くなく、特に昭次はジャニーさんのお気に入りでしたし、X JAPANYOSHIKIと聞いて少しでも男闘呼組を思い出してくれたのであれば嬉しいです。と言っても、私が男闘呼組について知ったのはジャニーさんが亡くなった後でしたが……

 

YOSHIKIさん。男闘呼組のことは覚えているでしょうか。

XX JAPANは今や、押しも押されもせぬ日本を代表するアーティストですね。若い頃は、「まず聴いてもらえなければ意味がない」とバラエティ番組に出演し、他のバンドから邪道と見られていたと伺いました。自分たちの音楽を貫くために、常識を蹴飛ばし、乗り越えようとしたXと男闘呼組。2組の現在は全く違っても、メンバーのみなさんの中で、青春の日々が色褪せることはないだろうと思っています。

 

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ロックだろうが、アイドルだろうが関係ない。

SixTONESの音楽とパフォーマンスを信頼してデビュー曲を託してくださったYOSHIKIさんは、あの頃のままのYOSHIKIさんなんだなと思います。

SixTONESに、〈Imitation Rain〉をくださって本当にありがとうございます。

 

今、SixTONESは、男闘呼組とまた違った形で現状と戦っています。事務所の運営に不透明なところがあり、ファンは一抹の不安を抱いています。また人気の反面、批判を集めやすくもあります。そして、ジャニーさんが亡くなったジャニーズ事務所から、未知の海外へと挑もうとしています。

YOSHIKIさんへのオファーの理由がそれだということはさすがにないと思いますが、私は、運命がもう一度、男闘呼組をやり直させようとしていると感じています。

平成の始まりに道半ばで奪われた男闘呼組の未来を、令和の初めにSixTONESが、アップデートされた形でもう一度始める。ジャニーズが再び、「自分たちのやりたい音楽」をやる。その印が、Xと男闘呼組のいた“あの頃”のメロディを歌うこと、なのだと思わせてください。

 

昭次。

いえ、もう芸名も使わなくなった一般の方ですから……成田昭二さん。

SixTONESをご存じでしょうか。およそ30年の時を隔てた後輩を、少しでも見ていただけていたら嬉しいです。

当時1番人気だった昭次さんのことを、そうとは知らずに好きになりました。私は1番人気のメンバーを好きになることが多く、今応援しているSixTONES松村北斗くんもその1人で、我ながらミーハーだなぁと思っていたのですが……昭次さんを好きになってわかりました。私は人気だからその人を好きになるのではなく、人を惹きつける人、人気になる力を持つ人が好きなのだと。

昭次さん。あなたは1番かっこいいジャニーズです。最強のジャニーズです。アイドルと言われることをあなたは嫌いましたが、私にとっては、あなたこそが1番のアイドルです。

 

 

 

SixTONESのデビュー曲をYOSHIKIさんが作ると発表される前日、私はたまたまX JAPANForever Loveを聴きながら、昭次さんのことを考えていました。

変わり続けるこの時代に

変わらない愛があるなら

Forever Love Forever Dream

溢れる涙の中

輝く季節が永遠に変わるまで

Forever Love

男闘呼組のなくなったこの時代でも、私は男闘呼組を好きになりました。

男闘呼組が輝いた季節は永遠です。ジャニーズは永遠です。

SixTONESは、今度こそは、絶対に離れません。

永遠になってください。

お願いです。

SixTONESは、男闘呼組が行けなかった夢の先へ先へずっと先へ、どこまでも駆けて行ってください。

ずっとずっと、好きなことをやり続けてください。

 

 

YOSHIKIさん。SixTONESに最高のエールをくださって、ありがとうございました。

 

 


SixTONES - Imitation Rain (Music Video) [YouTube Ver.]