きょもほくのジェンダー論

 

 

 

きょもほくという一大命題について、新たに考えたことがあるのでシェアします。例によって主観のオンパレードですので、論拠ヨワヨワです。解釈違いはご容赦ください。

 

以前きょもほくについて書いた記事です。後半で語っております。

mtmrleon.hatenablog.com

こちらはきょもほくの価値観、主に「正しさ」の違いを取り上げ、「きょもほくは宗教戦争である」と定義しました。

 

 

 

さて今回は、題しました通り、きょもほくをジェンダー的な観点から捉えてみようというお話です。

何を言ってるんだ、2人とも男じゃないか。どこに男女の問題が。ええ、そういったご感想もあるでしょう。

まずは一旦聞いてください。常々、私はこう思ってるんです。

京本大我は男になりたい幼女であり、松村北斗は幼女になりたい男である」

 

すみません、この時点で倫理観がいろいろアウトですね。こいつやべえ頭沸いてると思った方は、そっとブラウザバックしてください。そっと。

 

話を戻します。

いや、幼女は確かに言い過ぎました。なりたいも言い過ぎたし、であるも言い過ぎました。でも一方で、あながち間違ってもいないと思うんです。詳しく説明していきます。

 

 

まず京本さん。女性と見紛う中性的な美しさと、実力主義で己に厳しい男性的な内面を併せ持っています。ここに見られる葛藤は、男性社会に飛び込み、男性と互角に働く女性たちに重ねることができるのではないかと思うのです。

京本大我は、もちろん、生物学的に男性です。しかし、ジェンダーとは「社会的な性」のことです。社会的な性を考慮した時、京本大我には、「女性」の要素が入り込んでくるのです。

彼はご両親の血を引き見目麗しく、幼い頃から女の子に間違われることも少なくありませんでした。また、箱入りの一人っ子で運動が苦手、絵を描くのが好きという「男性的でない」性質も相俟って、「男性らしさで評価されない」また「女性のように甘やかされる」という、彼の社会的に「女性的」な側面が構築されていきます。

 

しかし、京本大我は男です。生物学的に男であり、そして性自認もほぼ間違いなく男でしょう。また、冒頭に貼ったブログ内で、京本さんは自分の外側に正しさを求めているという趣旨を述べましたが、外側、つまり社会の正しさを信じている彼は、当然社会的な「正しい男性」に当てはまりたがる傾向も強いと思われます。それはそもそも彼が「正しい男性」とかけ離れているから、という可能性もありますが……卵が先か鶏が先かはわかりません。

とにかく、そこで私はこう推測するのです。京本大我には、少なからず「男性性コンプレックス」があるのではないかと。生まれや容姿ではなく、実力や業績など、「男性的」な要素で認められたいという欲求があるのではないか、と。

「女性だから」という理由だけで、働かせてもらえない。給与が少ない。昇進できない。家庭に押し込められる。そんな、男性と同じ基準で働きたい女性たちの葛藤と、京本さんの「男性性コンプレックス」は非常に親和性があるのではないかと思うのです。京本さんは、生まれついての家柄や容姿によって、世の女性たちが抱えるジェンダーの問題とよく似た戦いを強いられてきたのではないでしょうか。

 

 

では松村北斗はどうでしょう。彼も家庭内では末っ子で、やはり箱入り息子として育ちました。しかし、少年時代こそ美少女のような容姿を持っていたとはいえ、京本さんほど極端なものではなく、大きく取り上げる要素ではないように思います。

北斗について着目すべき点は、彼の趣味嗜好です。音楽だけでも、欅坂46、坂口有望、ずっと真夜中でいいのに、ヨルシカなど、メンバーの中でも特に女性ボーカルの曲を多く聴いていますよね。一方京本さんは、一部を除いてほとんど男性ボーカルのロックです。

それから北斗は、小説でも湊かなえさんや西加奈子さんなど女性作家のものを好んで読んでいます。また映画に関しては、最近、ジャニーズwebで「意外と恋愛ものが好き」だと公言していました。

 

彼の趣味を追っていると、どうも「少女神」的なものを信じる傾向があるように思うのです。追うというか、平手友梨奈ちゃんが好きでパフォーマンスを真似る時点でもうそれじゃんって感じですが(笑)

あるいは、恋愛観において「コンプレックスのある人に惹かれる」「自分と似ている人が好き」という、女性との共感を求める側面も見られます。

松村北斗は、どうも女性の内面に惹かれる傾向がありそうです。「男性性からの逃避」とまで言えるかはまだ検証が足りていないので保留にしますが、家庭では大事に守られて育った彼ですから、社会における「男性的」な役割を担うには心が追いつかない面もあるのかもしれません。

 

 

京本大我は男になりたい幼女であり、松村北斗は幼女になりたい男である」で言いたかったことを、なんとなく理解していただけたでしょうか。

そしてこの主張の証左として、というかきょもほくとジェンダーを絡めて考えるきっかけとなったものなんですが、私はYouTubeのリモート動画におけるきょもほくに着目したいのです。

 

動画を再生して、まず私が受けた印象が、

「京本かっこつけてる!!北斗可愛こぶってる!!」

でした。

 

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伝われ。

 

 

いや、メス村北斗の最たるものはもちろんこれです。

j-island.net

最初見た時びっくりしちゃった。メスっていうかもはやマリア。腹筋痛くて全然見進められなかったし2回目を見る勇気がない。

 

 

何が言いたいかって、これ、自撮りであり、(マリアは違いますが)ビデオ通話なんですよ。つまり、撮影中は自分の顔がずっと目の前の画面上に見えているわけです。すると、自ずと自分が客観的にどう見られるかを普段よりも意識することになる。そこで何が起こるか。画面の前で、無意識に「自分はこう見られたい」という願望通りの振る舞いをするんです。

つまり、こう言えます。

京本大我はかっこよく見られたい。

松村北斗は可愛く見られたい。

 

 

 

ここで私が絡めたいのが、きょもほくの「承認欲求」です。

京本と北斗の承認欲求が若干強めなのはみなさんお察しかと思います(笑)2人とも箱入り息子だからしょうがない。いや、悪いとは言ってませんよ。「俺はね!俺はね!」って、自分の話し出したら止まらないのメチャ可愛いんで一生やっててください。

話を戻します。きょもほくについて考える時に、2人の共通点と相違点を炙り出そうという方向性になるのは避けがたいことです。少なくとも私はそうです。2人はどこが似ていてどこが違って、だからどのように「馬が合わない」のか。そんなことをずーっとずーっと考えています。その一環として、京本論では「価値観の違い」を述べました。

そこに加えて、私は今回こう提唱したい。きょもほくは、「承認欲求の種類が違う」のです。

 

2人の承認については、「男性として評価されたい」「女性に共感したい」でなんとなく結論づいているようにも見えますが、さらに事実に即して深めていきたいと思います。

 

まず京本さんが、実力や業績などの「男性的」な面を評価されたがっているのは周知の事実です。先輩やメンバー(特にT中氏)からデロッデロに甘やかされ、一見承認欲求はすぐに満たされるように思いますが、あくまでも彼が重きを置いているのは仕事、特に歌。親の七光りだとか、ジャニーさんの言った「(ピンクの)髪色に頼っている」だとか、見かけ倒しの評価には非常に反発します。大人になって折り合いがつきつつあるとはいえ、根底にはそういった、外見しか見ない評価、いわゆる「まなざされる」ことに対するわだかまりは残っているのではないかと思います。

あるいは、そこに自覚的でなかったかもしれない京本少年に、あえて厳しく接することで、より実力主義的傾向を引き出したのがジャニーさんということなのかもしれません。結果として京本さん自身は少なからず苦しむことになりましたが、その反面、「男性性コンプレックス」は彼の原動力にもなっています。ジャニーさん、慧眼と言うべきか、罪深いと言うべきか。

 

一方、北斗に顕著なのは「友達がいない」という発言です。私からしたら電話しまくれる親友が2人もいるんだから十分じゃねえか!とは思いますが(笑)、北斗本人からしたら友達がいないんですって。あっそう。いやそういう話ではなくて。

べつに友達がいなくても全く気にしないのなら、わざわざ友達の有無に言及することなんてないんです。しきりと「友達がいない」を繰り返すのは、裏を返せば「友達」に執着しているから。具体的な友人というより、「友達」という概念そのものに、と言ったほうが正確でしょうか。端的に言えば、というか京本さんに対する定義のし方を踏襲すれば、松村北斗には「友達コンプレックス」の傾向があると言えるのではないでしょうか。

では、その場合の「友達」とは一体何か。私は、「愛」だと思うのです。無償の愛。

恋愛ものが好き、という話も先ほど出ましたが、それも愛に飢えている証左ではないでしょうか。いや何万人に愛されてると思ってんのよアンタ。でもその愛を素直に受け取れないひねくれた自己肯定感の低さがなぁ〜〜〜っ!そんなところも好きだよ!!!

とにかく、松村北斗の求めているものは、業績や役割への対価としての評価ではないんです。自分の存在をありのままで包んでくれる、無償の愛なんです。母性とも言えるかもしれません。彼がどこか女性という存在に傾倒しているのは、こういった愛への渇望の表れではないでしょうか。

 

 

ここでちょっと、あることに気がつきませんか?

 

何もしなくても甘やかされる京本大我。それでも彼は、自分の実力を、男性性を見てほしいともがいています。外見だけで容易く愛されがちな彼だからこそ、その望みは叶えられ難いものなのです。

 

そして、無償の愛が欲しい松村北斗。彼はそのクールな風貌と色気を武器に、グループの一番人気として、数々のランキングで上位に入っています。でもそれだけ認められていながら、北斗のグラスにはひびが入っているので常に渇いているのです。

 

 

もうお気づきでしょうか。

きょもほくは、一方が欲求、いや渇望している「承認」を、もう一方がすでに持っているのです。それは両者とも、生まれついての性質として。

 

想像してみてください。そんな存在が近くにいたら、絶対に嫉妬するじゃないですか。

 

なんで京本ばっかり何もしなくても甘やかされて大事にされるんだろう。

なんで北斗ばっかりランキング上位に入ってかっこよさで評価されるんだろう。

どちらの立場に立ってみても、胸が苦しくなります。

 

 

 

 

とまあ、暗〜い話になってしまいましたが、きょもほくの間に渦巻く複雑な感情の一つにこういった、承認欲求のすれ違いがあるのではないかというお話でした。

 

きょもほくはもちろん一言で言い表せる関係性ではなく、他にも芸術表現の観点だったり、グループ結成前後の事情だったり、様々な角度から考察が可能だと思います。また、今回の内容に関しても、あくまで目立った傾向があるというだけです。女性に甘やかされたい京本さんもいますし、毒舌を吐いてかっこつけたい北斗もいますし(笑)人の感情や欲求は様々な要素が入り混じっているので、一概にこうとは言い切れません。それをいちいち取り出して文章にしていては、2020年が終わってしまいます。

以上、あくまでも私の個人的・主観的な見解でした。解釈違いは悪しからず。

 

普段よりコンパクトになりましたが、読んでくださりありがとうございました!

来月はブログの更新予定が立て込んでます(笑)

がんばりま〜す。